世界のトップコンテンツをKADOKAWAから——。編集者の情熱が実現させた大型企画の翻訳出版
2025年5月28日、とある上・下本が日本の書店に並びました。『自由』——ドイツで首相を16年間務めたアンゲラ・メルケル氏による回顧録です。世界的なリーダーによる大著がKADOKAWAから出版されるに至った背景には、「世界のトップコンテンツ翻訳出版プロジェクト」と、一人の編集者の活躍がありました。


読者の未来のために優れた海外書籍を届けたい
これまでもKADOKAWAでは、話題の海外書籍を数多く刊行してきました。この取り組みをさらに発展させ「世界的にスーパーヒットする作品」を獲得し、時代を象徴する「知」をKADOKAWAのラインナップに集積したい。そんな思いから、2022年に社内で立ち上がったのが「世界のトップコンテンツ翻訳出版プロジェクト」です。
起案者であり、現在も同プロジェクトを推進する郡司珠子さんは、1994年にKADOKAWA(旧角川書店)に入社したベテラン編集者。角川文庫編集長や翻訳書籍編集長などを歴任し、書籍編集の最前線で活躍してきました。
「出版は未来をつくる産業だと考えています。良書はときに、読者の人生に大きな影響を与えます。すぐには学びにつながらないこともあるかもしれませんが、改めて振り返ってみたとき、かつて読んだ本の価値の大きさに気付かされることもある。
そんな読者の未来に寄与するような優れた書籍は、国内だけでなく、海外でも多く刊行されています。より多くの読者に、優れた海外書籍を届けられたらと思っているんです」
海外書籍の版権獲得は難易度が高い
郡司さんが本プロジェクトを起案した背景には、翻訳出版の特殊な事情も関係しています。通常、海外で出版される書籍は、版権(翻訳・出版する権利)を獲得・購入し、翻訳を経て出版されます。ところが、この版権獲得には想像以上に高いハードルが存在しています。
基本的に海外版権は、原稿のない企画の段階で、市場に新刊情報が出回ります。さらに人気のタイトル・著者の場合、複数の出版社が入札形式で版権獲得を競り合うこともあります。つまり、内容やページ数が不確定な状態で、高額な入札を決断しなければならないのです。
また同著者の既刊を扱う出版社に優先権があるため、早期の版権獲得が次作の獲得や好循環につながります。出版社の中長期的な成長の観点からも、早期の版権獲得はとても重要なのです。
「これまで当社も入札で競り負けることが何度かありました。自社で出版する際の販売見込み等を踏まえて入札金額を算出するのですが、特に注目の著者の場合は、リスクを取って大きな金額を提示しないと獲得できません。以前からこの部分に課題を感じていて、相応の金額を柔軟に提示できる体制を確立したいと考えていたんです」

社長の即断でプロジェクトがスタート
この郡司さんのアイデアは、本人も驚くほどのスピードで実現します。きっかけになったのは、2022年4月に実施された社長の夏野剛とのディスカッションでした。「海外書籍の版権獲得を強化したいと話したところ、なんとその場で社長承認を得られてしまった。まったくの予想外でした」と郡司さんは笑います。
その後、社内の正式な承認を受け、同年7月には「世界のトップコンテンツ翻訳出版プロジェクト」がスタート。社長直轄事業として通常の予算とは別枠で投資資金も準備され、大きなチャレンジができる環境が整いました。
なお、KADOKAWAには従業員が挑戦的な企画を提案できる「プロジェクト公募」の制度があります。本プロジェクトの実現に向けては、この制度を活用し正式承認後チームメンバーを社内で公募することになりました。
ビッグタイトルを次々刊行
同時に、海外書籍の新刊情報を収集していた郡司さんは、本プロジェクトにふさわしい書籍の企画をふたつ発見し、日本での独占的翻訳権を獲得します。
そのひとつが、元アメリカ大統領夫人ミシェル・オバマ氏の『心に、光を。不確実な時代を生き抜く』です。パンデミック、フェイクニュース、連邦議会議事堂襲撃、人種差別、戦争……。社会全体を覆う不安が絶えない現代、どのように自己を保ち、自分らしさを実現していくか。ミシェル氏の模索が描かれた本作は、北米で275万部を達成する大ベストセラーとなっています。

日本での刊行時期が確定したところで、編集、営業、宣伝、デジタルマーケティング、パブリシティによる販売戦略チームを組成。2週間に一度会議を行い、発売準備を進め、2023年9月26日に本作を刊行。このときのプロジェクトチーム組成のノウハウが次作にいかされたと郡司さんは振り返ります。
そしてもうひとつが、元ドイツ首相であるアンゲラ・メルケル氏の回顧録『自由』です。
1954年に西ドイツのハンブルクで生まれたメルケル氏は、生後間もなく家族と共に東ドイツに移住し、秘密警察が監視する独裁体制下で35年間を過ごしました。そして1989年のベルリンの壁崩壊後、物理学者から政治家に転身。2005年から2021年まで16年間、ドイツ首相を務めました。
「メルケルさんは、独裁体制下で育ちながら、その後一国の首相までのぼりつめた稀有な人物です。そんな彼女が政治回顧録を書くと聞いて唯一無二の本になるだろうと確信し、ぜひプロジェクトで獲得すべきだと思いました」
日本での刊行前日の2025年5月27日に、メルケル氏によるトークイベントを日本経済新聞社とともに企画・運営したのもプロジェクト責任者の郡司さんです。日経ホールでのイベントは完売となり、さらにオンラインでも13万回以上視聴されました(2025年7月10日現在、PVベース)。来日の調整からプログラム構成、移動、セキュリティ、メディア取材に至るまで想像を絶する緻密な準備の結果、ドイツの元首相が来日するビッグイベントは成功裏に終わりました。
翻訳書を知り尽くした一人の編集者のアイデアから始まった「世界のトップコンテンツ翻訳出版プロジェクト」。ミシェル・オバマ氏、アンゲラ・メルケル氏という世界的著名人の版権を相次いで獲得し、KADOKAWAの翻訳出版事業に新たな可能性を切り開きました。
世界の「知」と日本の読者を結ぶ本プロジェクトの挑戦は今後も続きます。
※本記事は、2025年7月時点の情報を基に作成しています