800ページ近い大著を支えた編集者の執念。元ドイツ首相・メルケル氏の回顧録『自由』刊行までの舞台裏
2025年5月、元ドイツ首相のアンゲラ・メルケル氏が自身初の回顧録『自由』の刊行を記念して日本を訪れました。上・下巻合わせて800ページ近いこの書籍を手がけたのが、ビジネス生活文化局 ライフスタイル1部 ライフシフト事業課の郡司珠子さんです。元首相による注目の回顧録が日本の書店に並ぶまでの、知られざる裏側をお伝えします。
日本刊行までは「プレッシャーとの戦いだった」
KADOKAWAは2025年5月28日、ドイツ元首相であるアンゲラ・メルケル氏の著作『自由』上・下を刊行しました。同書はメルケル氏が書き下ろした政治回顧録です。


牧師の娘として東ドイツの独裁体制下で過ごした前半生から、ベルリンの壁崩壊、ドイツ再統一、首相として直面した数々の危機——ユーロ危機、難民危機、新型コロナウイルス、ロシアのウクライナ侵攻——、そして退任までを克明に描いた大著で、日本語翻訳版のボリュームは上・下巻あわせて800ページ近いボリュームです。
「世界的にスーパーヒットする作品」を確実に獲得し、時代を象徴する「知」をKADOKAWAのラインナップに集積したい。そんな思いから2022年に立ち上がった「世界のトップコンテンツ翻訳出版プロジェクト」の一環で、KADOKAWAは本書の独占的翻訳権を獲得しました。
※プロジェクト立ち上げの背景を記した前編はこちら
「日本で刊行されるまでずっとプレッシャーとの戦いでした」と明かすのは、同プロジェクトの立案者であり、角川文庫編集長や翻訳書籍編集長などの経験もあるベテラン編集者の郡司珠子さんです。
「話題の著者による海外書籍は、基本的に版権(翻訳・出版する権利)獲得の時点で原稿が完成していません。ただ、事前にメルケル氏のこれまでの半生が描かれると聞いて、かなりのボリュームになることが予想されました。そのため翻訳出版にあたって、まず経験豊富な2人の翻訳家を決めるところから始めています。本国の出版社に承認を得た上で決定したのが、長谷川圭さんと柴田さとみさんです。
ただし、今回のようなページ数が多い海外書籍の場合、原著の最終稿をもらうまで翻訳には取りかかることができません。最終稿までは内容修正が何度も入るので、仮に初稿から翻訳していたらそのたび修正対応に追われてしまう。編集者として、翻訳家の方に過度な負担を与える作業は避けなければなりません」
日本語版だけに許された特例とは?
そこで郡司さんが初稿を手にした2024年5月からスタートさせたのが、巻末の索引の作成でした。驚くのがその数です。最終的に一覧に掲載した人物はなんと700人以上に及んだといいます。

「ドイツ語は読めませんが、人名は私でも見分けがつきます。姓と名の区切りの判別などに苦戦しながらも、ひたすら名前を拾う作業に取り組みました。この作業を先に進めていたおかげで、その後の編集作業がかなり効率化されたと思います」
原著の最終稿が仕上がった2024年9月からは日本語への翻訳作業がいよいよスタート。2人の翻訳家の尽力もあり、4ヶ月後の2025年1月には翻訳を終えています。郡司さんがこの間、プロジェクトメンバーとして声をかけた文芸局の細田明日美さんとともに、原著との突き合わせ作業に集中したといいます。
「突き合わせとは、訳漏れや不自然な箇所がないかを確認する重要な作業です。版権を獲得した出版社として特に注意深く確認しなければならない部分です。
ドイツへの留学経験がある細田さんは原著を、私は英語翻訳版を読み込み、それぞれ日本語訳と照らし合わせました。とても苦しく長い作業の甲斐あって、いくつかの重要なポイントに気づくこともできました」
ただ、苦労はこれだけではありませんでした。実は出版に際して日本にだけ許された特例があります。それが、上・下巻スタイルでの刊行です。
「メルケルさんは、自らの半生を記した回顧録を1冊の形で世に出すことにこだわっていました。その気持ちは痛いほどわかります。その一方、日本の出版事情を考えると、800ページ近い書籍を1冊で売り出すのは現実的ではありません。
交渉を重ねた結果、最後はどうにか納得していただけたのでホッとしました。ただ、トークイベントで来日した際、『2冊で刊行することを許したのは日本だけですよ』といたずらっぽく笑っていましたね」
メルケル氏が「自由」について語ったこと

こうして完成した『自由』は、2025年5月28日に日本で発売。前日の27日に開催されたトークイベントを日本経済新聞社とともに企画・運営したのも郡司さんでした。メルケル氏はこのイベントで、書籍のタイトルにもなっている「自由」について強く語りました。
トークイベントの全文はKADOKAWA文芸WEBマガジン「カドブン」にて公開中です。
https://kadobun.jp/feature/readings/ekzw4heiy40s.html/
無事にイベントを終えた後、メルケル氏は郡司さんらスタッフに対して「とても楽しかった。今日という一日を忘れることはありません」と伝え、ドイツに帰っていったといいます。
KADOKAWAだからこそのダイナミックな仕事
メルケル氏の書籍を日本で刊行すること、そしてメルケル氏に日本で良い思い出を作ってもらうこと。KADOKAWAのみならず広く大きなメリットをもたらし得るダイナミックなプロジェクトを成功させた郡司さんは、編集者に最も必要な能力は「想像力とエンパシー」だと語ります。
「相手が何を考え、何を求めているかを想像する力。そして、その思いに共感し、寄り添う力。この2つがなければ、良い本は作れません。海外書籍は特にそれが顕著です。異なる言語で書かれた著者のメッセージを理解し、ときには言外の主張にも想像を巡らせなければなりません」
ただ、「このプロジェクトの実現は個人の力だけではとうてい無理でした」と続けます。
「会社員の一番の良さは、会社の力を利用して一人ではなし得ない大きな仕事に挑戦できることではないでしょうか。KADOKAWAという会社の信用と資金があったからこそ、そしてともにプロジェクトに尽力したチーム員がいてこそ、元ドイツ首相であるメルケル氏の本を扱い、来日イベントまで実現することができました。もちろん大きいプロジェクトである分、多くの部署から人員を揃えなければいけませんが、皆のスキルと努力がぴたりとハマったときのインパクトはとても大きいです」
メルケル氏の『自由』は発売から大きな反響を呼んでいます。しかし、郡司さんの目標はさらにその先にあります。

「瞬間的に売れて終わりにはしたくありません。この本は長く読まれる価値を持っている。ロングセラーに育てるのが今後の私の使命です」
翻訳出版の世界は今、大きな転換期を迎えています。どの国も内向きになり、他国の文化や思想に対する関心が薄れつつある中で、優れた海外書籍をいかに国内の読者に届けるかはますます重要な課題となっています。
一冊の本が国境を越え、言語を越え、人々の心に響く——。
そんな本が持つ力を信じるKADOKAWAは、これからも世界の「知」を日本の読者に届け続けます。
※本記事は、2025年7月時点の情報を基に作成しています