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「八世紀も昔の『万葉集』が、当時の武蔵野に生活した人びとの生の歌声を残してくれていることは、貴重なことでした。さらにその内には、戦争に出かける兵士の歌、別れを悲しむ女の歌もあります。無形の人間遺産といってもいいでしょう。その中から、新しい元号の「令和」を考えることも、できたら幸いです。国家が示す未来像と、生活者として生きる中で、われわれがどう向き合えばいいのか、古代武蔵の万葉びとにも聞いてみたいものです。」(講師より)
◆角川アカデミア森の学校より講座のご案内◆
・『万葉集』にちなんだ年号「令和」の由来も解読!
・講義後、参加希望者は武蔵野坐令和神社を正式参拝できます。
・講座に合わせ、神社に「金沢文庫本万葉集断簡」を特別展示!
『万葉集』には「武蔵」の地が詠み込まれた歌が収録されています。埼玉県には万葉の歌碑も各地に見られます。
『万葉集』の巻14には武蔵国の歌として9首が収められていて、5首に「武蔵野」という地名が詠み込まれています。武蔵野の花や草を背景にした恋の歌などです。そればかりではありません。時代を映した厳しい歌もあります。
『万葉集』の編まれた時代、武蔵野の広がる武蔵国はどのような地域だったのでしょうか。この地は大和政権の勢力圏の東の境、毛(け)の国に入った楔(くさび)のような存在でした。ヤマト王権にとって東の最先端、重要で厳しい地域でもありました。そうした地域に住んでいた人々の生活の哀歓に万葉歌から触れてみませんか。
また、武蔵の国の位置づけから武蔵の国出身の防人の歌も残されています。遠く離れた地に派遣された兵士たちの心情も推し量ることができます。
さらに、『万葉集』に残された歌からは、当時の日本人、都の人々がどのように武蔵野を見ていたのかも想像されます。武蔵の地の置かれた状況や古代という時代を見渡した広い視点から『万葉集』を考えてみるのはいかがでしょうか。
ところざわサクラタウンに鎮座する武蔵野坐令和神社の名は、中西進氏によって命名されたものです。武蔵野の地にふさわしい名称です。神社には、『万葉集』の古い写本の一部があり、講座では、解説と共に展示がなされます(「金沢文庫本万葉集断簡」)。
年号「令和」の由来となった『万葉集』に記された「令和」の言葉についても、その背景を知ることができます。
『万葉集』研究の第一人者による貴重な講座をお楽しみください。
(参考)
[『万葉集』に見える武蔵の歌]
多摩川にさらす手作りさらさらに なにぞこの子のここだ愛(かな)しき
武蔵野に占部(うらべ)かた焼きまさでにも 告(の)らね君が名占(うら)に出にけり
武蔵野のをぐきが雉(きぎし)立ち別れ 去(い)にし宵(よひ)より背(せ)ろに逢はなふよ
恋しけば袖も振らむを武蔵野の うけらが花の色に出(づ)なゆめ
(或本の歌――いかにして恋ひばか妹に武蔵野のうけらが花の色に出(で)ずあらむ)
武蔵野の草葉もろ向きかもかくも 君がまにまに我(あ)は寄りにしを
入間道(いりまぢ)の於保屋(おほや)が原のいはゐつら 引かばぬるぬる我(わ)にな絶えそね
我(わ)が背子(せこ)をあどかも言はむ武蔵野の うけらが花の時なきものを
埼玉(さきたま)の津に居(を)る舟の風をいたみ 綱は絶ゆとも言(こと)な絶えそね
夏麻(なつそ)引く宇奈比(うなひ)をさして飛ぶ鳥の 至らむとぞよ我(あ)が下延(は)へし
※以上の歌のあとに「右の九首は武蔵の国の歌」と記されている。
講師紹介 中西 進(なかにし すすむ)
昭和4年(1929)8月21日、東京都に生まれる。東京大学大学院博士課程修了、文学博士。現在富山県高志の国(こしのくに)文学館館長、社団法人日本学基金理事長。平成17年(2005)瑞宝重光章、同25年(2013)文化勲章受章、富山県特別栄誉賞受賞、令和元年(2019)京都市名誉市民。大学在学中、久松潜一に師事、高木市之助、土居光知の学風を慕う。博士論文『万葉集の比較文学的研究』で読売文学賞を受賞(33歳)、『万葉史の研究』と合わせて日本学士院賞を受賞(40歳)。
以後、比較文学、日本文化の研究で知られ、『源氏物語と白楽天』で大佛次郎賞、『万葉と海彼』で和辻哲郎文化賞。「中西進の万葉こころ旅」100回放送で奈良テレビ放送文化賞、奈良県観光PR大賞特別賞、「万葉みらい塾」で菊池寛賞。ほか京都新聞文化賞、北日本新聞文化賞、アカデミア賞、(韓国)昌原KC国際文学賞など受賞。